
鹿児島を語る時、西南戦争を避けて通ることはできない。鹿児島では「10年の役」という。骨肉の争いとなったこの日本最期の内乱は、発展途上の国力を消耗し疲弊させたが、それ以上に鹿児島の人的物的損害は甚大であった。わずか130年前、「政府に訊問の筋之有り」という、ただそれだけの理由で有為の人材が幾千幾万と屍を山野に晒したことに私は慄然とする。その最期の舞台が城山である。
城山に立てこもった賊軍は四百に満たない。それを数万の政府軍が十重二十重に包囲した。まさに袋の鼠である。私はこの反乱に大義があったなどとは毛頭思わないが、この最期の決戦は避けられたのではなかろうかという思いが消えない。既に熊本で雌雄は決していたのである。
城山は標高107mという。山頂に鹿児島市街と桜島を一望できる展望台ができている。山自体が鹿児島城(鶴丸城)の裏山で、鶴丸城はこの山を背負って海に向かって門戸を開いている。鶴丸城に天主は設けられなかった。「人をもって城と為す」島津の思量はそれを許さなかった。今見ると城の堀も「こんなもんで守れるか」と思うほど貧弱、かつ狭い堀である。まずは天険を背負っている自負がある。故にここは島津家久築城以来立ち入り禁制の聖域であったと聞く。今でもツタやシダなどの亜熱帯植物や年代を経た照葉樹が自生する自然林である。
明治十年雪の降る中、城続きの厩跡に勢ぞろいした私学校徒1万5千は陸軍大将、西郷隆盛の閲兵を受け出立した。その時の薩摩の兵制はその後の陸軍の編成とは多少異なる。一小隊200人、100人に半隊長一名を置く。10小隊で1大隊、一番から五番までの大隊と独立大隊その他の編成がされた。西南戦争小史については次を参照されたい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89
雨は降る降る 人馬は濡るる。越すに越されぬ田原坂
歌に歌われる田原坂の激闘を経て、人吉、宮崎と壮絶な退却戦ののち鹿児島に立ち戻った敗残兵は城山に篭った。

城山の攻防はウキペディアから引く。
9月1日、鹿児島入りすると、辺見は私学校を守っていた200名の官軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は城山を中心に布陣した。このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、住民も協力していたことから、西郷軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなった。しかし、9月3日には官軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐した。反撃に出た西郷軍では9月4日、貴島率いる決死隊が米倉を急襲したが、急遽米倉へ駆けつけた三好少将率いる第二旅団に阻まれ、貴島以下決死隊は一掃された。こうして官軍は9月6日、城山包囲態勢を完成させた。この時、薩軍は350余名(卒を含めると370余名)となっていたので、編制を小隊(各隊2030名)に改めた上で以下のように諸隊を部署した。
狙撃隊 ─ 小隊長蒲生彦四郎 … 西郷の警備
城山方面 ─ 小隊長藤井直次郎
岩崎本道方面 ─ 小隊長河野主一郎
私学校・角矢倉方面 ─ 小隊長佐藤三二
県庁・二ノ丸・照国神社方面 ─ 小隊長山野田一輔
大手・本田屋敷方面 ─ 小隊長高城七之丞・副小隊長堀新次郎
上の平・広谷・三間松方面 ─ 小隊長河野四郎左衛門
新照院・夏陰下方面 ─ 小隊長中島健彦
夏陰 ─ 小隊長岩切喜次郎
後廻 ─ 小隊長園田武一
後廻・城山間 ─ 小隊長市来矢之助
官軍の参軍山縣有朋中将が鹿児島に到着した9月8日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策をたてた。この頃の官軍の配備は以下のようになっていた。
丸岡・浄光明寺・上の原 ─ 第2旅団(三好重臣少将、本営鶴見崎)
高麗橋・谷山道・海岸沿・西田橋 ─ 第3旅団(三浦梧楼少将、本営騎射場)
多賀山・鳥越坂・桂山 ─ 第4旅団(曽我祐準少将、本営韃靼冬冬)
甲突川・西田橋・朽木馬場 ─ 別働第1旅団(高島鞆之助少将、本営原良)
下伊敷 ─ 別働第2旅団(山田顕義少将、本営上伊敷)
米倉方面 ─ 警視隊(本営米倉)
西南戦争が最終局面に入った9月19日、西郷軍では一部の将士の相談のもと、山野田・河野主一郎が西郷の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は「城山決死の激」を出し決死の意を告知した。
今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。
翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山県からの西郷宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。
9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まった。このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・池上・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。進撃に際して国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃した。途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹した。
西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺見・山野田・岩本平八郎らは再び岩崎口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死した。
午前9時頃、銃声は止んだ。戦死を肯(がえ)んぜず、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別府九郎・野村忍介・神宮司助左衛門らは熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第四旅団の部隊にそれぞれ降伏した。ただ降伏も戦死もしないと口にしていた中島だけは今以て行方が知れない(「鹿児島籠城記」には岩崎谷で戦死したという目撃談が残っている。これが正しいようだ)。
西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社が活躍した。

西郷隆盛が最後の5日間を過ごした洞窟

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